古代

中世

近世

近代

現代

縄文時代

縄文人の暮らし
  • 氷河期の終了により、小型動物や植物が人間の主な食料となった
  • 食生活の変化とともに竪穴住居での定住生活が定着していった
  • 縄文時代からは多くの貝塚が残っている
    • 貝塚は漁労が行われていた重要な証である
縄文文化
  • 女性の形をした土偶や石棒などは祈祷に使われていたと思われる
  • 成人式などでは抜歯が行われていた
  • 屈葬が主な葬法だった
縄文文化
  • 土器と磨製石器の両方が使われていたので、この時代は磨製石器専用を意味する「新石器時代」ではなく、「縄文時代」と呼ばれる
  • 表面を平らにするために縄を転がしてつける独特の文様を縄文と呼ぶ
  • 土器はそれぞれ草創期から晩期までの6期に区分されている
  • 土器は植物を煮るためなどに使用された

紀元前二世紀頃の土器

紀元前3500年~前2500年の土器

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 22-31
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 11-15

邪馬台国とヤマト政権

史料から見る古代日本
  • 当時の文字史料から弥生時代の日本の様子が伺える
史料 史料から分かること
『漢書』地理志(一世紀頃作成)
  • 「倭人」の国 (日本) は100余国に分かれていた
  • 倭国は時々朝鮮に使者を送っていた
『後漢書』東夷伝
  • 57年に倭の奴国なこくの使者が後漢光武帝から印綬を受け取った
  • 107年に奴国王は後漢に奴隷を献じた
「魏志」倭人伝
  • 倭国で大きな戦いが起こり、卑弥呼という巫女が王位につくまで治らなかった
邪馬台国
  • 卑弥呼が統治した29カ国を邪馬台国と呼ぶ
  • 邪馬台国には租税・刑罰・市などの制度が整っていた
  • 卑弥呼の死後、倭国は再び乱れた
  • 卑弥呼と同族の壱与いよが王妃となってから乱は治った
邪馬台国の2説
  • 邪馬台国には九州北部説と近畿地方のヤマト説がある

九州説

邪馬台国とヤマト政権は別々であり、ヤマト政権が邪馬台国を吸収した。これを裏付ける戦争の形跡は見つかっていない。

近畿説

邪馬台国=ヤマト政権

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 33-35
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 22

弥生文化

弥生人の暮らし
  • 稲作は中国・朝鮮から伝わり、徐々に狩猟・採集から水田耕作を主軸とした生活が広まっていった
  • 貯蔵用の高床倉庫を作り始めた
  • 弥生文化は北海道・南西諸島には伝わらなかった
弥生時代の特徴
  • 水田の普及
  • 武器の発生(戦争・政治の誕生)
  • 環濠集落
弥生文化
  • 死者は集落の近くの墓地に埋められた
  • 伸展葬が主な葬法だった
  • 死者を弔うための墳丘も作られていた
  • 墳丘の高さは身分によって違った
  • 祭事には銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈どうかなどが使用された
  • 銅鐸は朝鮮から伝来してきた

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 26-33
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 15-22

古墳文化

古墳とは
  • 墓場として古墳が作られていた、約400年にわたる時期を古墳時代という
  • 古墳の中では、前方後円墳・前方後方墳の二種類が多かった
  • 墳丘上に埴輪はにわが並べられた
  • 武器・農具・銅鏡などの副葬品もあった
  • 240年〜60年頃に卑弥呼の墓と推定されている巨大前方後円墳の箸墓古墳が作られた

三ツ山古墳(方墳)

人物埴輪

古墳時代の暮らしと文化
  • 豪族は環濠集落に住み始めたが、民衆は竪穴住居の村に住み続けた
  • 農耕に関する祭祀は重要視された
祭祀 説明
祈年としごいの祭 豊作を祈る春の祭り
新嘗にいなめの祭 収穫を感謝する秋の祭り
  • 中国・朝鮮半島から多くの思想・技術が伝わってきた
    • 騎馬技術、須恵器の生産法、漢字、仏教などが伝来してきた
    • 6世紀に五経博士が儒教を日本に伝えた

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 35-42
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 23-33

古墳時代の政治

倭の五王
  • 『宋書』倭人伝によると、倭にはに朝貢した五王(讃・珍・せいこう・武)が存在した
  • 五王は「日本書紀」「古事記」にも登場する
天皇
応神・仁徳・履中の3説ある
仁徳・反正はんぜいの2説ある
允恭いんぎょう
安康あんこう
雄略(ワカタケル大王)
  • 雄略天皇の別名「ワカタケル大王」は稲荷山古墳で出土した鉄剣に刻んである
  • 雄略天皇は朝鮮半島まで遠征した
  • 五王の血筋が絶えてからは、応神天皇の血を引くとされた継体天皇が即位し、王朝交代が起こった

稲荷山古墳出土鉄剣

雄略天皇

ヤマト政権の氏姓制度

政治の流れ
時代 主な出来事
6世紀
  • 小型古墳の割合が増え、地方で大きな古墳が作られなくなった
  • 地方権力は弱体化し始めた

磐井の乱 (528年)

  • 国造くにのみやつこ磐井いわいは新羅の援助を受け、反乱を起こした
  • 乱は鎮圧された
  • 国造に子女を出仕さることなどでヤマト政権は豪族を服従させた
6世紀末-7世紀初頭
  • 前方後円墳の造営は途絶えた
  • 中国・朝鮮は相次いで統一されて行き、日本でも大王の権力を強化する必要ができた
  • 大王にだけ特別な八角墳が作られるようになった

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 35-42
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 27、31-33

厩戸王と蘇我馬子

蘇我氏の台頭
  • 6世紀中頃から物部もののべ蘇我そがは対立し始めた
  • 587年に蘇我馬子は物部守屋を滅ぼし、592年に崇峻天皇を暗殺して政権を握った
厩戸王の台頭
  • 継体天皇の死後、傍系の天皇が何代か続き、欽明天皇の代にまた直系へ復帰した
  • 直系の後継者がいなかった敏達天皇の没後、傍系の間で後継者争いが展開され、推古天皇が即位することになった
  • 傍系の厩戸王うまやとおう(聖徳太子)が推古天皇の皇太子になった

厩戸王

蘇我馬子

厩戸王・蘇我馬子政権
  • 隋・唐遣隋使・遣唐使を派遣し、対等外交を成立させた
  • 603年の冠位十二階の制度制定により、才能による身分制度が設置された
  • 日本初の憲法の憲法十七条は604年に制定され、豪族に官僚としての精神を求めた

山背大兄王の変

  • 厩戸王の死後、蘇我氏は敏達天皇の血を引く古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこを後継者として支持した
  • 厩戸王の子の山背大兄王やましろのおおえのおうも有力な候補者だったため、蘇我入鹿そがのいるかは643年に山背大兄王を自害に追いやった

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 42-52
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 34-36

天智天皇と天武天皇

乙巳の変

  • 蘇我氏への不満が高まっていたなか、645年に中大兄皇子なかのおおえのみこ中臣鎌足なかとみのかまたりは蘇我入鹿を斬殺し、蘇我蝦夷そがのえみしを自害に追いやった
  • 蘇我氏は滅亡し、中大兄・中臣鎌足による新政権が樹立した
  • 中大兄は叔父の軽皇子を即位させ、古人大兄・軽皇子の子などの政敵を殺していった

中大兄皇子 (天智天皇)

中臣鎌足

中大兄・中臣鎌足政権

大化の改新

  • 646年に大化の改新が導入された
  • 大化の改新は、豪族の力を抑え、再び蘇我氏みたいな存在が現れないために行われた
  • 大化の改新は以下の新制度・新法を導入した
    • 公地公民制
    • 班田収授法
    • 戸籍・計帳
    • 統一的税制
    • こおり

白村江の戦い

  • 663年に倭国・百済くだらは朝鮮半島の白村江はくすきのえで唐・新羅と衝突し、大敗を喫した
  • 戦後、倭国は防衛に力を入れ、667年に都を大津宮に移した
  • 遷都と同時に中大兄は天智天皇となった

壬申じんしんの乱

  • 672年の天智天皇の没後、天智の弟の大海人皇子おおあまのみこと天智の子の大友皇子の間で後継者争いが展開された
  • 大海人が勝利し、天武天皇となった
飛鳥時代の終わり
  • 684年に天武天皇は八色の姓やくさのかばねという、天皇中心の新たな身分制度を導入した
  • 同じく天武の時代に「天皇」号が成立し、天皇は神として崇められるようになった
  • 710年に平城京遷都が行われた

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 52-62
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 38-40

飛鳥文化

飛鳥文化
  • 仏教中心の文化だった
  • 百済・高句麗こうくりと随・唐の影響が大きかった
  • 豪族によって多くの寺院が建てられた

法隆寺

十一面観音菩薩立像

白鳳文化
  • 7世紀後半~8世紀初頭の文化を指す
  • 仏教は急速に広まった
  • 儒教も普及し始めた
  • 漢詩・和歌の作成が始まった

薬師寺東塔

高松塚古墳壁画(複製)

参考文献

  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 36-37、p. 40-41

律令制度

  • 大宝律令は701年に完成された
  • 律令制度は中国の官僚制度を模倣していた
  • 律令国家は飛鳥後期から平安初期まで続いた
  • 律令制では、収穫・特産品・労働など、様々な形で税が設けられた
    • 収穫の3%
    • 調・庸絹・布・特産品とその運送
    • 雑徭ぞうよう年に60日の奉仕
  • 民衆はに区分され、戸籍に戸単位で記録された
    • 戸によって口分田くぶんでんが班給され、税が課せられた
律令制

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 62-67
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 41-44

奈良時代の政治

  • 奈良時代は政争の時代だった
天皇 主な出来事
元正げんしょう
  • 元正天皇は元明に次ぐ、二代目の中継ぎの女性天皇だった
  • 708年に新たな金銭として和同開珎わどうかいちんが鋳造された
  • 710年に元正は平城京に遷都した
聖武しょうむ
  • 元正の弟の首皇子おびとのみこが即位し、聖武天皇となった
  • 長屋王の変 (729年)

    左大臣で天武天皇の孫に当たる長屋王は藤原氏によって自害に追い込まれた

    藤原広嗣の乱 (740年)

    長屋王を追いやった藤原宇合うまかいの息子の藤原広嗣ひろつぐは左遷されたことに不満を抱き、反乱を起こした

孝謙
  • 聖武天皇が崩御してからは、娘の孝謙天皇が即位した
  • クーデター発覚によって藤原氏の政敵の橘氏は処分され、藤原氏の権力は絶対的なものになっていった
淳仁じゅんにん

恵美押勝えみのおしかつの乱 (764年)

孝謙・淳仁の不仲を好機と捉えた藤原仲麻呂は反乱を起こしたが、鎮圧された。乱後、淳仁は廃位された

称徳
  • 孝謙は再び即位し、自分を通して聖武血統を継ぐ他戸王おさべおうの座を確保しようとした
  • 称徳は他戸の中継ぎとして、他戸の父を光仁天皇として即位させた
光仁
  • 光仁は称徳の期待を裏切り、天智系の別の子を皇太子にし、他戸王を殺害した
  • 7世紀半ばから対外的緊張が高まり、780年から30年にわたる蝦夷との戦いが始まった
桓武かんむ
  • 794年に平安京に遷都した

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 68-79
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 48-52

天平文化

庶民の暮らし
  • 竪穴住居にかわり、掘立柱ほったてばしら住居が建設されるようになった
  • 過度の税で農民は困窮した
  • 多くの農民は逃亡した
    • なかには豪族に仕えるようになった農民もいた
天平文化
  • 平城京中心の貴族文化が展開された
  • 唐の影響が色濃かった
  • 「古事記」(712年)「日本書紀」(720年)が作成された
  • 759年に「万葉集」も編纂され、民衆に広く読まれた
  • 貴族のためには中央には大学、地方には国学の教育機関が設けられた
  • 仏教は更に発展した
    • 南都六宗(三論・成実・法相・倶舎・華厳・律)の仏教研究の学系ができた
    • 神仏習合・祖先信仰などとも結びついた
  • 芸術では、木・粘土の塑像や、漆の乾漆像が作られた

法隆寺夢殿

新薬師寺十二神将像

参考文献

  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 54-60

荘園公領制

荘園制の誕生
  • 土地開墾を奨励するため、朝廷は以下の法を制定した
    • 三世さんぜ一身法 (723年)
    • 墾田永年私財法 (743年)
  • これらの法により、多くの貴族・寺社・豪族は土地を所有するようになった
  • 私有地は荘園、朝廷の直轄領は公領と区分された
  • ほとんどの荘園・公領はみょうとされ、名主のうちに分けられた
荘園制の変化

初期荘園

  • 初期荘園に荘民はなく、郡司が管理を行っていた

寄進地系荘園

  • 税を逃れるため、多くの武士は領を寄進し、かわりに荘官に任命された
  • 寄進した側は領家、寄進を受けた側は本家と呼ばれた

知行国

  • 寄進地系荘園の増加により、朝廷の収入は激減した
  • 朝廷は上級貴族に受領ずりょうとして知行国ちぎょうこくを支配させ、税収を引き上げようとした
  • 11世紀には受領は在庁官人に政治を任せるようになっていた

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 101-105
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 80-81、86-89

平安初期の政治

薬子くすこの変

  • 怨霊に脅かされた平城へいぜい天皇は一度譲位し、嵯峨天皇が即位した
  • 天皇位への復帰を望んでいた平城は810年にクーデターを起こし、平城京に戻った
  • 平城はすぐに捕えられた
新国家体制
  • 律令制度は放棄された
  • 白村江での大敗の記憶は薄れ、軍事的訓練より土地開発が重視されるようになった
    • 軍団兵士制は廃止された
    • 戸籍・計帳の作成も中止された
摂政関白の設置
  • 承和の乱 (842年) で藤原北家が権力を握った
  • 初の少年天皇の清和天皇が即位してからは、藤原北家の良房が初めての実質的摂政となった
  • 光孝天皇は当時の摂政の藤原基経に関白の役職を与えた
  • 二人目の少年天皇の朱雀天皇の時に成人前は摂政、成人後は関白という決まりが確立した
  • 10世紀末に藤原家の内紛は収まり、藤原道長とその子の頼通は80年間政権を握った

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 80-90
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 68-71

武士の台頭

武士の誕生
  • 任期が終わると国司 (受領)は任国から京に戻り、再び受領に任命されるのを待った
  • 初期の武士は新しく赴任してきた受領のために武力を振い、徴税を行う存在だった
武士の反乱

平将門の乱 (939年)

  • 一族内で始まった乱が次第に拡大して行き、将門まさかど常陸・下野・上野の国府を攻め落とした
  • 乱は鎮圧され、将門は殺害された

藤原純友の乱 (939年)

  • 藤原純友は海賊追捕の功績で恩賞が出なかったことに怒り、挙兵して太宰府を占領した
  • 乱は鎮圧され、純友は殺害された

前九年合戦 (1051年)

  • 陸奥国で安倍頼時貞任さだとう源頼義が衝突した
  • 1062年に頼義軍が勝利した
  • 頼義は味方のためにも勲章を請求したことで有名だった

後三年合戦 (1083年)

  • 恩賞が出ずに終わってしまった私合戦の結果、陸奥守源義家の人気は落ち、味方の藤原清衡の方が権力を拡大していき、奥州藤原氏を始めた

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 90-101
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 81-84

保元・平治の乱

院政の成立
  • 後三条天皇には貞仁親王と実仁親王という二人の子がいた
  • 後三条は譲位して先に貞仁(白河天皇)に即位させ、実仁を後継者に定めた
  • しかし、実仁が急死したため、白河天皇は子を堀河天皇として即位させ、上皇となった
  • 堀河も急死してしまったため、堀川の子の鳥羽天皇が即位した
  • 鳥羽が21歳になったとき、白河上皇は鳥羽に無理やり譲位させ、崇徳天皇を即位させた
  • 白河が鳥羽の皇后と関係を持っていたため、崇徳天皇は鳥羽ではなく、白河の子だったのだと推定されている

保元の乱 (1156年)

  • 白河の死後、鳥羽上皇は皇統を取り戻すために崇徳に譲位を強要し、自分の子の近衛天皇を即位させた
  • 近衛の夭折を受け、鳥羽は四男を後白河天皇として即位させた
  • 鳥羽の死後、崇徳と後白河は対立し、崇徳は白河殿を占拠した
  • 後白河は平清盛・源義朝などの武士に頼り、崇徳を捉えた
  • 崇徳の味方をした摂関家・藤原氏は弱まった

平治の乱 (1159年)

  • 後白河の近臣の藤原通憲と藤原信頼は対立し始めた
  • 通憲は平氏と組み、信頼は源氏と組んだ
  • 通憲・信頼は共倒れとなったが、平氏は源氏に勝利した
  • 平治の乱で活躍した平清盛は太政大臣になり、平氏が政権を握った
平氏政権
  • 平氏は日宋貿易で利益を上げた
  • 表は武士政権だったが、実質的には貴族政権に似ていた

参考文献

  • 山本博文 『〔東大流〕 流れをつかむ すごい! 日本史講義』 PHP研究所、二〇二〇年 p. 110-119
  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 87-93

平安文化

弘仁・貞観じょうがん文化
  • 平安初期の文化は貴族を中心としていた
  • 唐の影響が強かった
  • 漢文学が盛んになった
  • 教育は重んじられた
    • 貴族には大学別曹が建てられた
    • 空海は庶民にも教育を与えるために努力した
  • 最澄空海は唐で密教を学び、帰国後に天台宗真言しんごんを開いた
    • 両宗は貴族の間で流行した
  • 神仏習合は更に色濃くなり、修験道などが誕生した
  • 不動明王の彫刻や曼荼羅などの密教芸術が盛んになった

室生寺

西院曼荼羅

国風文化
  • 10~11世紀にかけ、日本独特の貴族文化が展開された
  • カタカナとひらがなが発達し、主に女性によってかな文学が進められた
  • 和様も発達した
  • 御霊信仰が拡大した
  • 浄土教は空也・源信などによって広められ、多くの民衆に受け入れられた
  • 経塚も作られた
  • 貴族の邸宅は寝殿造という、日本風な建物に改められていった
  • 成人するときに男性には元服、女性には裳着の式をあげる習慣ができた
  • 七夕などを含む数多くの年中行事が行われ始めた

古今和歌集

紫式部

院政期の文化
  • 院政期には武士・庶民の文化が混ざった貴族文化が発展した
  • 庶民の歌謡は貴族のうちでも流行した
  • 浄土宗は全国的に広まった
  • 絵巻物が作成された

三仏寺投入堂

年中行事絵巻

参考文献

  • 笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 『詳説日本史 改訂版 日B309』 山川出版社、二〇二二年 p. 64-67、72-78、93-95

縄文時代

邪馬台国とヤマト政権

弥生文化

古墳文化

古墳時代の政治

厩戸王と蘇我馬子

天智天皇と天武天皇

飛鳥文化

律令制度

奈良時代の政治

天平文化

荘園公領制

平安初期の政治

武士の台頭

保元・平治の乱

平安文化